投げつけられた善意は受け取られるべきなのか?
ごきげんよう、私です。
先日、年明けを推しとともに祝うという、稀有な経験をしてきました。
今年は始まった瞬間から推し氏と推し事仲間と時間をともにした、とあってなんだかすごい一年になりそうな予感。
さて、常に推し氏のことで頭がいっぱいといってもよい私ですが(直近の舞台が珍しくフォーマルな格好(しかも鍛えているせいで太ももがパツパツで最高)をしている推し氏に滅多打ちにされているちょろいファンとは私のことである)、まあ、その推し氏のブログや、その他ツイッターを目にしてちょっと思ったことがあったのでなんぞ書いてみようかなと。
投げられる善意は受け取られるべきなのか
この趣味(若俳オタ)の面倒だなと個人的に思うことには、ビジネスと感情のやり取りが同時に行われていること。
いわゆる人気商売というやつ、板の上に立つ仕事全てには避けられないものなのだろうし、大変だなーと思って見てる。
(俳優アイドル系の中古ブロマイドの取り扱いのあるところを覗いたら、ランダムの小さい缶バッチ一個2160円て凄まじい。需要供給曲線が脳裏にちらついた)
好意や善意。
その叩きつけられたものは受け取る必要があるのか。
はてさて。
サビ残の価値
私も、若手俳優たちがせっせと更新するSNSやブログを流し見しているのだけど。
マネージャーさんや周囲がやってることもあるんでしょうけど、アレ、ご本人が更新しているなら業務外も甚だしいよねえ。
んなことしてる時間あったら他のことに使った方がいいんでは?と本気で思う。
ここのブログに書いてあるのを読んで、本当にそうだなと深く同意したので引用しておく。
俳優とか人前に立つ職業の人は、もうその道を選んでくれた時点でとてもありがたいし、仕事してる姿に色々もらってるから、ファンのことまで考えなくていいよ!と思う。勝手に好きで勝手について、勝手に財布開きますので。SNSとかブログとか、無料でサービスしなくていいです。
ファンサービスといえば聞こえはいいけど、SNSの更新って無給の営業じゃん?
さらにそれをしたからといって、必ずしもプラスの影響が出るとは限らない。
ただ、自分でもしてしまって良くないなと思うんだけど、推しと若俳オタの間にはビジネス的なやり取りがあるので、無料のサービスすら意味を求めてしまう。
意味なんかなくてもいいはずなんだ。私だってこのブログに意味を求められたら困る。
書きたいこと書いてるだけだから。
推しは芸能人だし、ツイッターやブログやインスタなどのSNSが営業=仕事の意味合いもあるのは確かだけど、推しにその全てに対しての責任や意義を求めるのは違うのではないかと思う。
まあ、発信した以上はある程度の収拾つけてほしいけどね。
推し氏もいい大人なんだし。迂闊自重してくれー。
そして配信された内容に関して、こっちが真に受ける必要もないと思ってる。
フェイクかも、間違ってるかも。
もしくは私のとっては有害な情報かも。
生きる人間のすることだ、それが常に最善とは限らない。
推しは神様ではないから。
生きてる人間同士、コミュニケーションに齟齬が生まれるなんて、よくある話じゃないか。ね。
推しへのプレゼント
さて、推しへのプレゼント問題についても、私の中では同一の問題なので触れておく。
SNS配信問題が推しからこちらへのボールだとしたら、プレゼントはこちらから推しへのボール。
推しは、我々からのプレゼントを素直に受け取って、喜ばなくてはならないのか?
さーて。
私は全く同担拒否のケのないやつ(同好の士の話は面白いので聞きたいけど、嫌ったり拒絶したり攻撃したりするほど赤の他人に興味を持てないことが多い)なので、イベントとかのアフターで、そんな話を聞いてたりするんだけども。
いや!!?!?それ推しが欲しいと思うの!!?!?!??
みたいなね。あるよね。
数万もするぬいぐるみとかね。
自分がもらって嬉しいもの≠推しがもらって嬉しいもの
推しに似合うと思うもの≠推しの好みのもの
推しが以前好きだと言ったもの≠推しが今ファンにプレゼントされて喜ぶもの
いろいろ書き出したけど、要は、それ相手の立場に立って考えてる?ってこと。
いやもしかしたら推しが信楽のたぬき欲しいっていうタイミングあるかもしれないけど、それをファンからのプレゼントでもらって喜ぶか?ってこと。
これ書きながら私の推しは信楽のたぬきもらって喜ぶ可能性が…なくはないなと思ってしまったんだけど…ごめん推し氏…
「善意」は免罪符にならない
赤の他人、しかも営業の顔しか知り得ない推したちの「本当に欲しいプレゼント」なんてわかるわけがない。(推しと知り合いの方は…勝手になさって)
そもそもプレゼント欲しいかどうかもわかんないでしょうが。
プレなんて所詮、こっちからの気持ちの押し付けにすぎないわけでしょ?
「良かれと思って」。
これを武器にするのはいささかベイビィちゃんにすぎるよ。
悪気がないことが悪意のない証明になるとは思えない。
未必の故意ってやつだな。
それをすればそうなる、という可能性は分かっていたのに、しなかった、もしくはした。
「良かれと思って」、相手が望まない可能性が多分にあるものを贈って許されるのは、庇護対象の子どもぐらいじゃないだろうか。
大人ってめんどくさいね。
プレゼントの価値
前項では推しにプレゼントを渡すにあたって、という立場で書いたけども。
そもそもの話が違うだろ、プレゼントは推しのためじゃない。
自分が満足感を得るためのものだ。
喜んでくれたらラッキーぐらいの、自己満の贈り物だよ。
プレゼントを推しが喜ばなくても当然だ、別に欲しいとリクエストしたもんでもないんだから。
それを忘れちゃいけない。
この舞台鑑賞および推し事ってやつは、お金と時間をじゃぶじゃぶ溶かす大人の趣味だから、そういうのが理解できないベイビィちゃんたちは、おうちの人と一緒にテレビに映る推しでもおとなしく眺めてなよ。
メンタリティまで口出そうとは思わんよ。
まとめ
コミュニケーションはキャッチボール。
とはいえ、投げられたボールを受け取る必要は必ずしもないし、逆に投げたボールが受け取られない可能性も十分にある。
しかし我々の趣味とはなんだ?
推しに貢ぐ?推しに見つけてもらう?
否、否。
推しが輝くのを見ること。
板の上で輝くあなたを見ていたい。
そうでしょ?
だから、よりたくさん見るためにSNSの更新をチェックしたり(推しもその需要に応えて更新したり)、出演作にお金を落とすだけじゃ自分が満足できないから贈り物をする。
SNSやプレゼントなんて、所詮エクストラ。
本来の推しの仕事や、本来の我々の趣味や動機からは外れた行為であるのを忘れずに、用法用量を守って無理なく楽しもうよ。
だって推しは輝いてるんだぜ。
そんなところで疲れて本来の目的を楽しめなくなるの、もったいなくない?
私はそう思う。
推しのSNSの更新喜んだり、推しへのプレゼントを悩んだりするの、すごく楽しいよね。
それは私もそうだし、それを楽しめる気持ちは尊い。
でも本末転倒になっているのを見かけると、やっぱりちょっと切ない。
推しも私も同担も他担も、みんな楽しめるといいよなあ。
推し事ってのは、本当に楽しい趣味なんだから。