「Take Me Out 2018」見てきたよレポ
ごきげんよう、ご無沙汰しております私です。
ここしばらく私生活がバタついていて、推し事ままならぬ日々。
私がなんのために働いてると思ってるんだ!!!!!
ということでいろんな意味でクッソ忙しいアレをアレして、観てきたよ推しの舞台。
「Take Me Out 2018」見てきたよレポです。18/4/8マチネ。
今回も推し氏カッコよかったです。
考えさせられる役だった。
しかし推しの萌え語りはここではあんまり書きません。あ、でもちょっとだけいうと衣装が最高に最高でした。グローブ〜袖の見える肌は絶対領域ですね〜〜。そして推し氏のことだから役に合わせた体づくりしたんだろうなあと思われる…、上腕筋と太ももが最高。好きです。
推しが好きで推しの舞台を観に行ってるけど、それはきっかけに過ぎないのかもなあとも最近は思う、不思議なもので。
例によってネタバレしかないので、もう半分過ぎたけど観劇予定でネタバレがお嫌な方はブラウザバックだ。自衛は大事ですよねニッコリ。
今回はざっくり内容(特に人物面)。についてのみ。演出とか役者の動きとかも書きたかったけど今ホント余力がないので、もし複数回観劇が叶ったらその時にでも書こうかなと思います。
あらすじ(公式hpより)
男たちの魂と身体が燃え滾る、「ロッカールーム」。彼らにとってそこは、すべてをさらけ出せる楽園だった。ひとりのスター選手による、あの告白までは-。
黒人の母と白人の父を持つメジャーリーグのスター選手、ダレン・レミングは、敵チームにいる親友デイビー・バトルの言葉に感化され、ある日突然「ゲイ」であることを告白。
それは、150 年に及ぶメジャーリーグの歴史を塗り替えるスキャンダルであった。しかしダレンが所属するエンパイアーズ内には軋轢が生じ、次第にチームは負けが込んでいく……。
そんなときに現れたのが、天才的だがどこか影のある投手、シェーン・マンギット。圧倒的な強さを誇る彼の魔球は、暗雲立ち込めるエンパイアーズに希望の光をもたらしたのだが-。
(引用終わり)
舞台は2003年のアメリカ、メジャーリーグのとあるチーム内のお話。
「俺たちは 楽園を失った」
果たして楽園とはなんだったのだろうな。
さーて楽しい考察のお時間ですよお〜
いくつもの問題を抱えたチーム
この舞台、登場人物の作り込み方が尋常でない。
野球の話なのだけど、作中のセリフ通り「野球はメタファー」というのが物語の主軸を示しているように思う。
アメリカの国家としての差別問題を、「スター」たちによって浮き彫りにする。
チーム全体として
主人公格であるダレンが、能力的に頭一つチームから飛び抜けているような印象があるけど(ダレンがホームランを打つシーンは音響と素晴らしい振りが相まって見ていて本当に気持ち良いシーンだった)、他のチームメイトもメジャーリーグで総合優勝するような素晴らしい選手たち。
エンパイヤーズには複数の人種のチームメイトが存在する。
スーパースターにして今回の火種であるダレンの父はヨーロッパ系、母はアフリカ系だし、特に本編での言及はないけどデイビーもアフリカ系らしい。ヒスパニック系のロドリゲスとマルティネス、年俸7億の日本人ピッチャーカワバタ。あと選手ではないけどダレンの個人会計士であるメイソンはユダヤ系。
(舞台上では演出上、肌の露出が多くて(舞台の多くがロッカールームでの会話。シャワーを浴びる/前後シーン数が多いのと、衣装替えのための着替えが舞台上で行われる)、ブロードウェイ版ではそこで肌の色の違いを観客に見せていたのかもなあ、なんて思ったりした。)
比較的多いヨーロッパ系も、高等教育を受けてリベラルな思想を持つキッピー、田舎者で無教養なその他大勢の一角であるジェイソン、ないものを持つダレンにむき出しのヘイトを持つトッディ、ガチガチの保守であり理解を止めたスキッパー。そして何にもない空っぽの、「南部の白人」シェーン。
改めて書き出すと全キャラめっちゃ濃いい。
それを日本で、日本語で、日本人の役者がやる(いやまあハーフの方もいるけど)。面白い試みじゃないか、TMO2018!
ダレンの生んだ波紋
人種的な意味でも濃いのだけど、さらにゲイであることをカミングアウトしたダレンによって、さらに人間関係は複雑になる。
スウェーデン系のキッピーは、そのお国柄もあってかLGBTフレンドリーな発想を持てる教育を受けているようで、ダレンを否定しないし、歓迎するそぶりすらある。
トッディやジェイソンは、ダレンが自分の枠の中に収まりきらない、憧れの存在が自分のコミュニティに所属しないと知って動揺し、反発、あるいは迎合しようとしているように見える(それが彼らの所属するコミュニティではアタリマエだから)。
逆にそれを相容れないと感じているのは、ダレンの親友だったデイビー、チームにとっての異物であるシェーン、ダレンの父親も同然だった監督の三人。
デイビーは敬虔なクリスチャンで、古き良きアメリカを体現するような人物。愛する妻と子どもがいて、少しいかめしいような古臭いしゃべり方をするし、発想もそれに近い。二週間前まで親友だったダレンに対して悪魔だの地獄に落ちるだの、クリスチャンならではの暴言を浴びせる。(もし先があれば、もしかしたら彼らは和解できたのかもしれない。デイビーは賢い=十分な教育を受けているというような表現もあったし、言い争うシーンはダレンのカミングアウトから幾ばくもなく、「親友の裏切り」に混乱していた部分も少なからずあったと思うから。そうであってほしい一観客の希望的観測に過ぎないけど)
シェーンは試合の後半の抑えとしてチームに起用されたピッチャーだ。天才的な投球センスを以って、チームを勝利へと導くストッパー。チームがリーグ三連覇を果たすためには非常に重要な人材である。
しかしその生まれ故か、本人の気質も相まって、チーム内で声をかけるようなものは、キッピーぐらいなもので。
シェーンは学ぶ機会がなかった。シェーンは幼少期を、アメリカ南部のグループホームを転々としながら過ごしている。そのような環境では十分な教育を受けることはできなかったろうし、「南部では差別意識が強い」というのは日本にいても伝え聞く。
彼は、有色人種を「白人以外」と表現することのまずさも、ゲイだからと誰かを否定することへの無意味さも、それを口に出すと自分にとって唯一の野球を取り上げられる可能性も、何もわからない。何にもない。彼はあまりに空っぽで、幼稚で、共感性に乏しく、しかしそれを抑えて上手く生きていく術も知らない。デイビーを「既知の否定」とすれば、シェーンはその対極になるのだろう。
(彼はダレンともっとも強く対立するのだけど、実質はキッピーの鏡の要素なのだと思う。ただここでそれを掘り下げるときりがなくなりそうなのでちょっとやめておく)
二幕冒頭では悲劇のダレンに同情したある父親からの手紙が紹介される。
そして書かれている一文「もし息子がゲイなら、もちろんそれを彼が選択したならばですが」。
この文を含んだこの手紙の差出人は、劇中深く追求はないんだけど、監督の本名なんだそうで。
しかし監督はダレンに対して直接自分の意思をダレンに伝えることはない。会見の前に唯一ダレンから予告されたときも、そしてシェーンの再登板が決まって怒りを露わにしたダレンが抗議しに行ったときも。
スキッパーは、この件に関して思考を止めてしまっているんだろう。おそらくこの三人の中で、もっとも「ダレン」を受け止めないのは彼だと私は感じた。
前者二人が否定だとすれば、スキッパーは「認めない」。土俵にすら立たせない。認識しない、というのは、否定よりも酷なことなのではないだろうか。
主人公格のダレンについても触れておこう。
ダレンはチームに強スラッガーとして籍を置く、黒人と白人のハーフ、そしてゲイだ。
序盤のダレンが特によく口にするセリフがある。
「俺が神だ」
節操なしの日本人からすると異様に自信過剰なセリフにしか聞こえないが、彼がいるのはアメリカで、親友は信心深いキリスト教徒である。そうそう口に出せる言葉ではないように思う。
序盤特によく見られる、貼り付けたような笑み、両手をベルトのバックルや腰にやるなどのポージング。
あからさまに他人を威嚇しているようだ。
先のセリフも、ポージングも、「強がり」なのだろう。弱い自分を強く見せかけて、自分を守っている。
ゲイであることを告白し、否定的な意見をぶつけられたり、それに関して同情するような手紙が多く寄せられてから、ダレンは虚勢をはるようなポーズは減る。
それを見たキッピーは「人間らしくなった」とダレンに言うのだ。
もしかしたらキッピーは励ましのつもりで、そう声をかけたのかもしれない。
しかし、ダレンにとってはそれは今までに自分への否定であり、才能と自信がある人が、自分が弱いことを認めるのは身をえぐられるような思いだろうと、見ていて受け取った。
ひとことで言うとしんどい。
「Take Me Out」to?
この舞台の題名、直訳だと「私を連れ出して」。
元ネタはおそらくアメリカの有名な唱歌「Take Me Out to the Ball Game(邦題:私を野球に連れてって)」。(日本人選手カワバタのセリフ「ワンストライク、ツーストライク、三振」はここからの引用なのかなあと思う)
※参照:Take Me Out To The Ball Game - YouTube
非常に牧歌的で、なんだか聞いていると体が揺れてくるような。
作中も、野球の試合シーンにはこの曲とともに、ユニフォームに身を包んだ演者たちが躍り出てくる。
その時の演者の顔は、心底楽しい、というような表情もあれば、真剣で何者も入り込めないような集中度の高い表情もある。
彼らは試合中、人種やセクシャリティを意識することはない。彼らはその瞬間、野球をするためだけに存在しているのだ。
そして、ダレンのカミングアウトの会見以前は、それはロッカールームまで地続きのもので、そこはある種楽園だった。
チームの勝利という一点のみを見据えたチームメイトたちが、ひたすらに野球にさえ打ち込んで入ればよかったのだ。
シャワーを浴びるために、もしくは試合に赴くために、そして家に帰るために、ロッカールームでどうやって服を脱ごうと、イチヂクの葉は必要なかった。
しかしダレンの落とした波紋により、ロッカールームのアダムたちの無垢は失われる。
あるものは恐れ、あるものは怒り、あるものは迎合しようとする。
禁断の実は知恵の実でもある。
知ってしまった以上、後には戻れない。
「俺たちは 楽園を失った」
ダレンの告白が禁断の実だとすると、カミングアウトのきっかけになったデイビーこそが邪悪な蛇、悪魔の化身である、と言うのも痛烈な皮肉に見える。
もしこのことに敬虔なキリスト教徒であるデイビーがこの構図に気づいていたとしたら、ダレンを猛烈に否定するのもあり得る、のかもしれない。
この演劇は、我々を一体どこへ連れ出そうというのだろうか。
マイノリティが社会に受け入れられること?
悲劇の主人公が幸せになること?
あるいは勧善懲悪?
……確かに終盤でダレンはメイソンと恋人関係になるし、ダレンに否定的だった登場人物のうち2人は物語から退場する。
しかしながら、起きた悲劇は覆せないし、退場してしまった2人は好きだったはずの野球を、そして人生を取り上げられてしまっている。
たとえダレンがある種の幸せをつかもうと、ダレンはゲイで有色人種というアメリカでは被差別的なアイデンティティを持ち続ける。それは彼は幸かろうと辛かろうと、事実として存在する。
この物語は、誰もが幸せに終わるような甘い物語ではない。
あの舞台の観劇者が、目的地を示されずに連れて行かれたのは、全てがハッピーエンドではない「現実」だったのだろうか。
綺麗な終わりなど、現実にはない。
たった2時間の観劇だったけれど、それを知るために、私はあの席についていたのかもしれない。