重箱の隅

まあ色々と?

「良きファン」でいたいなと思うこと

 

若手俳優である推しにハマって、強く思うことがある。

「良きファンでいたい」。

でも、良きファンってなんだろう、となんだか堂々巡りしてきたので、ちょっと整理するためにも文章化してみようと思う。

 

「良きファン」とは?

「良きファン」というのはそれを受け取る相手によって多角的に捉えられると思う。

ここでは三つの視点から。


①俳優にとっての「良きファン」
→自分を応援してくれてる/追いかけてくれる、自分を観にきてくれる/自分のためにお金を落としてくれる、自分の不利益にならない


②舞台にとっての「良きファン」
→舞台にお金を落としてくれる、舞台の品位を落とさない、舞台の不利益にならない


③ファンにとっての「良きファン」
→俳優の品位を落とさない、俳優の不利益にならない、観劇の妨げにならない

 

まあ、これは個人の考えなので他にも意見はあるだろうが。

 

全てに共通するのは、相手(ここでは俳優、舞台および他の観劇者)の不利益にならない、ということ。

お金をおとす、というのは、舞台や俳優にわかりやすい利益を上げているわけだけれど、

誰かへの利益を上げていれば、誰かの不利益になる行動を取ってもいいのか?

(マイナスはプラスで充填しきれるのか)

というのが今最もモヤっとしている点。

そこにフォーカスを当ててみようと思う。

なお、下記は聞いたことがある、とだけ。

それを受けた一個人がどう思ったか?という個人の意見であり、個人攻撃の意図はない。

気分を害されたらブラウザバック推奨だ。

 

 

言い分「金を払っている以上は客」

ある舞台で、お子さんが騒がしくしていたそうで。

もちろん保護者がいたようだが、自分の観劇を優先し、子どもはそのままだった…とか。

ちなみにその舞台は子ども向けの舞台ではない。

子どもが見てもわからない、とまでは言わないが、騒ぐような年ごろの子どもには少し難しかったように思う。

ほとんどの劇場が子ども向けでもない限り未就学児はお断りの場合が多いから、小学生(実際にそうであるかは不明だ)だったのかもしれないが。

おそらく、その保護者だった観劇者の言い分はこれ。

 

「金を払っている以上は客」

 

ふむ。

接客業ではよく目にするセリフのように思う。

しかし客=チケット代を払っている=舞台に金を使っている、なら何をしても良いのだろうか。

 

全くそうは思わない。

 

そもそもの前提が間違っているのだ。

 

売買契約は、金銭と権利を交換するための契約だ。

モノの代金を支払うことで、そのモノの権利を得る。

チケット代を以て得られるのは、舞台を鑑賞するための権利。

座席を私有化するための権利ではない。

まかり間違っても、観劇の、ひいては舞台の邪魔をするための権利ではないのだ。

 

では迷惑料を払えばいいのか?

 

否々。

何しろ座席の、隣、前、後ろ。
そこに座っている人間は、ほとんどの場合、同じ条件で劇場に入っている客だ。
そして演者も、音響も、照明も、もちろん観客も、生きた人間が関わっている。


些細なことであっても、作品のクオリティに影響がもたらされることは、十分にあり得る。

もしそれが害されたとしたら、いくら金を積もうと失われたクオリティは帰ってこないのだ。

そしてその損害を受けるのは、関わった全ての人間とその時間で、それを金銭でまかなうのは不可能である。

時間を賠償する金銭には、代替的価値しかない。

 

「舞台は生もの」とは、なかなかに至言だと思う。

 

 

 

推し事マウント 

若俳沼でよく目にするマウンティングは

「私の方がたくさん現場に通ってる!」

という主張が多いように感じる。

 

が、もしマウンティングをするなら、それが誰かの不利益になっていないか少し自省してみて欲しい。

 

まず、「現場に通う」という点について。

その行為自体は否定しない。

というかむしろ、沼においては推す姿勢として褒められる行為だと思う。

 

若手俳優なんて、地盤もなければ後ろ盾もない。

だから「若手俳優」なわけで。

それを応援するにあたって、出演する舞台を観に行くことは

「この人を応援するファンがいますよ」

「この人を起用すればチケットを取る客がいますよ」

という意思表示になる。

運営側には有効なアピールだ。

仕事がなければ、イケメンだろうがなんだろうが食っていけないわけだから。

 

たくさん通って、たくさん推しに還元するファンはありがたい存在だと思う。

 

実際、現場にたくさん入ったところで、痛むのは当人の財布ぐらいなものだ。

その行為自体は、誰にも不利益をもたらさない。

(まあ、もしかしたら無理やりに休んでいるために若俳オタがいる職場は迷惑を被っているかもしれないが、ここでそれを論じるのは推し事には無関係で無意味なのでしない)

 

ただ、闘鶏か何かと思うほど、同族のファンに闘志燃やすような者も見かける。

 

「だって他の誰かより、私の方が彼を好き!」

 

うーーん?

ちょっと待て。

 

誰かを好きという気持ちって、他の人と比べる意味、ある? 

 

否。

その発想、非常に腹が立つので、のでソッコーで否定してやる。

 

愛は誰かと比べるべくもないのだ。

そうすることで、自分の気持ちも否定しているのに、気づいているのだろうか?

 

 確かに「推し事」における愛とは、早い話がカネと時間だ。

舞台や俳優にどれだけの金を貢ぎ、どれだけの時間を割いたか。

時間経過と金額は基準があるから測れる。

測れる以上、誰かと比べることはできる。

 だが、比べるにしてもそれだけでは弱い。

 

この推しへの愛とは、それそのものではなく、正確に言えば推しに割けるカネと時間の「割合」だからだ。

一年は365日、一日は24時間。

これはみんな共通だが、生きていくのに必要な時間はそれぞれ異なり、それ以外の余暇を、趣味の時間に当てる。

その趣味の時間のうち、どれほどの量、ではなく割合を割けるか、ということ。

 

また割合とは総量に対するものだけではなく、濃度の話でもある。

同じ時間に同じ劇場に足を運んで観劇をしていたとしても、ただただぼんやりと眺めていたか、舞台の流れを考えながら見ていたか、ひたすら推しを観察していたか、舞台装置の動きを見ていたか。

また、それを見てどう思ったか。

同じく時を過ごしていても、その濃さは受け取り手によって全く異なる。

そしてその濃度の価値も、受け取り手によって違う。

 

時間的な話をしたが、金銭的にも同様だ。

1円の価値は人により異なる。

 

つまり、推しへの愛とは一見して比べられる「愛」ではあるが。

その実、個人それぞれで割合・濃度が違う、しかもその割合はその人の心情や価値観にもよるのだから、やはり比べられない、というのが私が至った結論である。

 

故に「推しへの愛」は比べる意味などなく、むしろそんな浅い部分で誰かと比べてみる、というのは、その濃さや割合、そしてそれを大事と思う自分の気持ちを否定することにもなる。

 

それでも他人と比べずにいられないというなら止めはしないが、こちらは相手をしてやる義理もないのだ。

比べる意味などないのだから。

(逆説的に言うと、自分の中では比べられる。がその辺は勝手にやってほしい。)

 

ただ、相手にしない者に突っかかるのは単なる迷惑行為なので、ご遠慮いただきたいところである。

 

 

 

 まとめ

 

長々と書いたが、結論は一言。

 

黙って財布を開けませい。

(無理しない範囲でね)

 

そうすれば誰もしんどい思いもしないし、推しもお金が入ってハッピー。

それが一番良いのですよ、きっと。

 

 

私事なんですが、先日のらぶフェスが推し事納めだったはずなのに、チケットがあると教えてもらって現場を最後の最後に増やしました。推しとカウントダウンだよわあい。我ながらチョロすぎる…