認知されたくないのこと
若手俳優沼に来て、「認知」という概念を知った。
言葉の通り、認めて知ってもらうこと。
そんな言葉がある(そりゃあ単語としては知っているけど)というのにカルチャーショックだった。
私は他人への関心が全般的に薄い。
薄情と言ってもいいかもしれない。
「自分と身内」と、「それ以外」で私は構成されている。
これの良し悪しは色々あるのだけど、認知という概念はそこにぶっ刺さる考え方だったので、せっかくなので書いてみようと思う。
そもそもの話、認知とは
にんち【認知】
《名・ス他》・これこれだと認めること。
・法律上の婚姻関係によらず生まれた子を、その父または母が自分の子だと認める行為。
・外界を認識すること。
辞書によるとこう。
一般的には二項目が多いよね。
俳優・アイドル沼では
定義①相手に一個人として認識されて
定義②何かしらの正のアクションを
定義③取られること
の三つを満たすとこまでが認知かなと。
名前と顔は必ずしも一致する必要もない気がする。
あ、あの人だ、と第四の壁の向こうから認めてもらうこと。あわよくばファンサって感じ?
だから、
・「ファン」「客席」という大きな対象に向かって行われているアクション(①の否定)
・「厄介さん」「オキラ」を避ける(②の否定)
・ファンの一個人を認識していてもアクションがない(③の否定)
この辺は認知行為ではない。
されると嬉しいらしいね、認知。
好きな人がたくさんいる中から自分見つけてくれたら、嬉しいのはわかるんだけど。
なんかされたくないんだよなあ認知。
認知されたくない
さて、表題の認知されたくない、というのについて考えてみる。
推しに対して、私の感覚は
・好き
・舞台でのびのびと演じる/歌うのを見たい、やりたいことやっててほしい
・そのために健やかであってほしい
・そのための財布です(限度があるけど)
といった感じかな。
でも認知されたくない。
顔を覚えられたくない。
ステルス機能搭載でいきたい。
認知の上でのファンサ、されたくない。(大衆向けのファンサはやぶさかではないです)
そこで冒頭の私という薄情な人間について少し語った部分が出てくるみたいだなと気づいた。
「自分と身内」と、「それ以外」で私は構成されている。
これが、推しにも適応されてる。
推しのこと好きだけど、内と外で分けるなら、完全に外の人だと思ってる。
観察と称して、いつも一歩引いたところから眺めてるだけ。
もし、こちらに気づいて近寄ってきた場合、確実に逃げる。やましいことなんてしていないけど。
「外」の人に知られるのは怖いから。
私は臆病なので、たとえ好きな相手であっても、私の内側を見せる気はない。
私の心の柔らかい部分をさらけ出すようなものなので。(推しはそれをするので頭おかしい人なのかなと思う瞬間ある)
蚊帳の外から眺めているだけ。
その距離感が私にとって心地よく推せる距離だから。
あとこれは勝手な心境なのだけど、
私のことを覚えるぐらいならその脳みその容量を他のこと、セリフ覚えたりとかに使ってほしい。
あなたの心に私はいる必要がないから。
「認知されたくない」にも色々あるらしい
この記事を書くにあたって、他の方のブログや書き込みをなんとなく流し読みしていたのだけど、
「認知されたくない」にも色々あるらしいと学んだ。
ガチ恋と呼べるほどの情熱を推しに向けていても認知はいらないという方を見たので引用させてもらう。
認知は絶対にされたくない。 もし認知されていたとしたら、もし万が一願いが叶って会えたときに、「ファンとは付き合えないからごめんね」ってフラれるのが理想です。
総括すると「恋人になるにはファンだとそのステージに立てないから」らしい。
もっとも推されている人の性格やポリシーによるんだろうけども。
ただ、
ただ、推しには、「応援しているファン」がいることだけは知っていてほしい。
矛盾なのは理解しているのだけど。
「好き」は、たとえ名も知らぬ誰かによるものでも、何かをする動機になると思っている。
もちろんそれが負の方向に働くこともあるのは知っているけれど(特に最近の推しの言動をもって)。
それでも、舞台に出よう、稽古をしよう、何かしようと思ってくれるのを願って、私は推しを応援するのだ。