舞台キングオブプリズムの感想を今更あげるよ
舞台キングオブプリズム- over the sunshine! -を先日(11月の頭だったのでもうひと月半も前か)観劇したので感想を書こうと思う。
ネタバレというか、キンプリとブタキンを見ていない人にはわかりにくいとおもうけれども、まあそういうものと思ってくれ。
11/4、大阪にいた。目的は観劇のため。
腰が重い私にしては異常なほどのフットワークの軽さである(仕事→夜行→マチソワ→夜行→仕事の0泊3日)。
もともとキンプリと続編のキンプラ共に履修済みではあったのだけど、完全に圧倒されていて。
あの、極彩色に圧縮された時間は、初めて見た時はずっとポカンとしていたし、体験後はしばらくパンクしていた。
(キンプリ見た後のプリズムカップの投票では大和アレクサンダーさんに入れたのだけども!筋肉は正義。)
とまあ、そこまでハマっていなかった私(東京住み)が大阪まで行ってキンプリを見に行ったのは、推し俳優が推し役で出演していたので。端的に言えば追っかけですハイ。
その話はとりあえず置いておいて、舞台キンプリ、「ブタキン」の話をしよう。
でも絶対に言っておきたい。
ブタキンは、いいぞ。
展開と脚本と演出について
キンプリを体験したのが結構前なので少しうろ覚えだけど、おおよその脚本は映画通り。
脚本担当を見ればなるほど、原作と同じく青葉譲氏。
同じ脚本家とは、メディアミックスとしてはあまり類を見ないのでは?
おかげで矛盾点や引っかかる解釈は一切感じず、どっぷりキンプリの世界観にひたることができたように思う。
しかし全て原作通りというわけではなく、舞台オリジナルシーンもあったり、ミュージカル的要素が組み込まれたりもしていて、ストーリー既知の原作ファンも楽しめる工夫がされていた。
そもそもの話、キンプリと「舞台」という環境が、抜群に相性が良い!
キンプリの鋭い場面転換は、言葉で表現するなら「舞台的」というのに、見ていて気づいた。
場面転換って基本的に起承転結で、それぞれの間には次につなげる「ヒキ」があるのが作法だと思ってる。
しかし、キンプリはそれを無視する作り方をしているなと(尺が短すぎてあえて無視している気もする)。
むしろもともと舞台のために書いた脚本を、諸々の事情でアニメに持ってきたのでは、と思うほどのなじみの良さ。
それを特に強く感じたのは、EZDOダンスのシーン、カヅキ先輩vsアレクと、コウジvsシンの対比。
方や高架下、方やエデロの稽古場。全く違う二つのシーンが、同じ曲に乗せて、全く別方向(ストリート系とアカデミー系、対決と教示)で描かれるのだけど。
これが映画では切り替わりが唐突すぎて、
理解はできるけど何を言ってるんだ…
と思いながら見てた。
でも舞台ではワッとキャストがはけたり、端の方でライトが落ちた状態で停止しているので、同時進行の別シーンとしてなるほど理解が捗る!
シーンとして、舞台なら演出としてむしろアリ。
というのがあのシーンを始めとしてブタキンとキンプリの比較を考えたわたしの感想。
どうしてそうなるのか?という説明一切なしに別のシーンに跳ぶのが多々見受けられるのがキンプリ(知らないアニメの総集編見てる気分)なのだけど、舞台ならそういう演出なのね!と納得する観客の一人でした。
あとやはり触れておきたい応援上映について。
今やキンプリの代名詞。
ブタキンでは、舞台の両サイドに設置された青いランプが、ライブパートや声かけを求められる部分で点灯する仕組み。
ストーリー上大事なシーン(というか青葉氏が大事にしているシーンかな)では余計な声かけを極力抑えていたように感じた。
応援上映、やはり面白いね。(そしてわかってたけど気が散る!笑)
推しを応援したい気持ちのサイリウムvs推しを見たい気持ちの双眼鏡。
サイリウム振ると視界がぶれるが応援はしたい。
どうしたら、どうしたらいいの!?とゆるゆると振りながら見てました。
余談ですがキャラクターによってテーマカラーがあって、それに合わせてサイリウムの色を変えて応援するわけだけれども。だんだん色変えが面倒になってきて、全員が代わる代わる出るシーンでは紫色をずっと振り続けてました。すると推しではなかったキャラも応援している気持ちになってきて、がんばれー!と思ってしまうの、面白い作用であった。
あとあれだな、映像効果と舞台の融合。
上記の場面二つの切り替わりがとても上手に行っていたのはこれのおかげもあると思う。
一番うまいなと思ったのは、コウジが銀河鉄道乗って旅立ってしまうシーン。
キンプリで個人的に唖然としてしまうシーンの一つなのだけど、
電車のドア映写を舞台装置に合わせてやり、コウジは無事宇宙?アメリカ?へと旅立ってオバレは無事星座になれましたし。
(書いててこのシーン本当に意味がわからないな…?でもそうとしか書けないよなあ…)
通常の舞台なら観客の想像に任せるところだけど、画面・アニメ慣れしている層にはウケる演出だなと。
「一週間後…」とかの書き文字の表現もそう。
設定を飲み込むのはアニメファン得意だけど、演出は過剰ぐらいにした方が伝わりやすいと思うので。
キャラクター・キャストについて
やっぱり脚本がオリジナルと同じというのはここが強いなとも思う。
キャラクター理解を各キャストしっかり深めてあるなとは見ながら感じたのですが、そのトレースぶりが一線を画すレベル。
あと声が似てる!
歌うま・踊れる・イケメン、ってとこまではキンプリの設定上欲しいキャスティング要素だとは思うんだけど、声が似てるキャストさんの多いこと。
アニメファンは声に敏感だ。
映画を見てどういう発声をしているかを確認したり、発声時のニュアンスやイントネーションは青葉氏などキンプリからのスタッフの指導があったではないかなと思いながら見ていた(ミナトさん役の五十嵐さんは映画の方もミナトさん役だから彼からの輸入はあったかも?)。
そして若手俳優たちが体を張ってるお風呂シーン。
フワーオ♡
裸については多くを語りますまい。
好みの肉体的には1位カズオ(美味しそう)、2位ミナトさん(最年長にしてよく鍛えてらっしゃった)、3位ユキ様(後ろ姿が妖艶すぎる件について)です。
コウジはもう少しタオルあげてください。
しっかし主役の橋本くん、体張りすぎィ!
自ら脱ぎにいったらしいと聞いたし、ライビュでは脱衣度が上がっていたのでババア心配してしまうよ!!
もともとは推しが推しを演るということで見に行ったのですけど、うん、みんな可愛かったー。
男子学生のわちゃわちゃ、見ていてとてもこころ穏やかになる類のやつでした。
「「「「「プ・リ・ン・ア・ラ・モ・オ・ド!」」」」」
のシーンは特にその辺がねちっこく描かれていて大変結構でした。
ビジュアルですごいなと思ったのはレオ役の星元裕月さん。
女の子より可愛い。性別:星元裕月は伊達じゃない。
お風呂シーンの最後、一番最後にはけていくんだけどそのシーンがハイパーかわいい。
あと4日のマチネで、勢いつきすぎたユキ様を支えるちょっとしたアクシデントがあったんですけど、
あの細い体で自分よりだいぶ背の高いユキ様を支えられるんですよ!!
ぐう男の子…ありがてえ…
役全体で見るとミナトさん役の五十嵐雅さんが良かった。
この方やはり映画で同役の声優をやっていただけあって、キャラ解釈のギリギリを上手に攻めてらっしゃって、
「これはミナトさん!」
と思える演技だった。(ケーキ!とみんな!に涙腺直撃させられた)
最年長本当にお疲れ様でした。
後日落語(声優落語のイベント)を見に行ったんですけど、いろんな意味で面白すぎてファンになっちゃった。
アヒャヒャ笑いやばい人だったよまさしー!
シュワルツのアドリブ大魔王の二人。仁総帥役の前内孝文さんと、ジョージ役の古谷大和さん。
ふたりでわちゃわちゃしてるところ、とてもかわいいかった。
どこまでがアドリブなんだあの人たち。
ライビュも古谷さんがカメラにたっぷりファンサくれてとても楽しめた、ありがとうジョージ。
シュワロつながりで、ルヰくん役の内藤大希さんもすごかった。
ルヰくんだった、すごくルヰくんだった…!
ルヰくんはキャラクター中で一番人間ぽくないふわふわサラサラしてる実体のキャラなのに、その雰囲気そのまま2.5D化してた。
役者さんってすげーなー。
あと個人的におもしろかったのはアンサンブルさんたちの使いどころ。
歌以外の部分でもいわゆる黒子的役回りもされてまして。(ある意味曲中もダンサーさんだから黒子っちゃ黒子だけど)
季節外れのホタルとか、ゆっくり落ちていく自転車とか、腰振り蜂蜜ダンスのハチ役とか、ジョージ以外の棒が付いてないシャッフルとか(セリフ時(古谷さんが喋るんだけど)口が動いてるのが見えたので実際言ってたのかも)。
前述の映像効果では補えきれない質量を伴う動く演出部分を補っていてとても見ていて面白かった。
あと最初の方でちょろっと書きましたが、私の推しが出てまして。
もうなんかよくわかんない。
推しが出てると推しに双眼鏡釘付けでストーリー追うもへったくれもない。
(ライビュはその点ちゃんと切り替わってありがたかったありがとう下手くそカメラ)(ライビュのカメラほんと下手だったなあ)
ただ一言、面白い舞台見させてくれてありがとう推し。
近々配信がくる?来てる?らしいので、また見て記憶掘り起こしつつ続きを書けたら書こうかなと思います。
今日はここまで。
推しバレのこと〜推しバレへの忌避感
前回の記事へのたくさんのビュー、スターありがとうございます。
気になる話題よねえ。
さて。
観た舞台のレポを上げようとしこしこ書いていたのですけど(早くしないと忘れる)、
…推しバレってどうなの?
と思ったのでちょっと書いてみる。
ブロググループの界隈ではみなさん推しバレ避けてらっしゃるよねえ?
(グループのお題や流行りは全く見てないので何が旬の話題かは理解できないのですけども)
新参者なので、え?それ必要なの?というか推しバレ度0でレポかけるわけがない私の筆力では…!っていう。
いやね、どうあがいても推ししか観てないんですよねえ。
My 視界 is only 推し。
いや、ちゃんと舞台全体も観てます、推しが出てないシーンも楽しく観劇してます。
もともとストーリー寄りのオタクなので舞台の流れを追うのは楽しいし、
音を楽しむのが好きなので音響に凝った舞台は聴いても楽しい。
でもさー、推しがいる方はお分かり頂けると思うんだけどさー、
推しがいると視界ジャック(cf:SIREN)されてまいますやん…?
推しが出てきたらなんかよくわかんない多幸感に触れて、
なんか見えない何かがポワポワ飛んでる気がして。
(やだ本当にSIREN…意味違うのに…)
私の性質上(好きなこと以外の興味が薄い)、どうあがいても推しに極振りになってしまうのですよねえ。
実際、共演者さんはなんとなくわかるけどそれ以外の若手俳優に対しては「聞いたことがある(かもしれない)」ぐらいの薄さ。
故に、レポあげたら完全に避けられない推しバレ。
一体何が忌避感を感じさせているのか?
ちょっと考えてみたい。
なんか恥ずかしい
「なんか」ってなんだよ、なんかだよ。
ある程度金銭的に自由のある人が多いと思うんですよね若手俳優沼の住民の皆さん(全てがそうだと思ってるわけではない)。
推しを応援する、拝むにあたって、彼らのいる現場に通うにはある程度の実弾(¥)は必要になるし。
いい歳したお姉さまがたが、若い子に入れ込むという事実が、なんか恥ずかしく感じる…のか?
(わたしは恥ずかしくないです、推しかっこいいので(主に歌声が)。)
同担拒否(他の同推しファンとの交流を求めない)
同担拒否の心理は後々考察してみようと思ってはいるんですけど。
ここでは
「推しが好きなの!」
「わかるー!」
みたいなやりとりをここで求めない場合、推しの名前を出さない方が割とスムーズに事が運ぶ気がする、という話。
しがらみも少ないし。
同推しのファンおよび知る人なら推しのいくつかの特徴でピンと来る場合もあるだろうけど、
わざわざ言わない人に詰め寄る必要ないじゃんね。
ドライに流してこ。
交流したいなら名前を出してる&交流したがってる&交流しやすい所に行けばよろしい。
同推しファンと見なされたくない
これ前項に近いんですがちょっと違うの。
いやーあまり言いたかないんですけど、私の推し、アレなファンがついてるんですよねー。
外野から見たら、その人たち声が大きいのでファンの主体に見えるのかもなーと思うと、我が推しのファンを自称するのちょっと躊躇うのよ…!
あのファンたちと一緒にして欲しくなぃょ…
推し(および関係者)に見つかりたくない
エゴサしない若手俳優っているんですかね?(いやいるだろうけど)
今時の若いもんですよ彼らも。
そしてはてブロは検索よけしてなきゃ普通にヒットするわけだし。
そこに気の狂ったような文章を推し宛に書いてるもん推しに見られたら発狂するかもしれない。
ファンレターには、綺麗な当たり障りのない文章を選んで書いているというのに。
推しが推しであることを誰かに知られる分には構わないが、推しに推していることを知られるのは嫌(面倒なファンである)。
みんなやってるので
出、出ー!同調圧力ー!
そういう人はもうちょっと自分で考えましょう。
見える範囲が全てじゃないぜ世の中。
ざっと思いつくのは以上かなー。
ほかにもし理由がある方は是非教えて欲しい。
面白いので。
認知されたくないのこと
若手俳優沼に来て、「認知」という概念を知った。
言葉の通り、認めて知ってもらうこと。
そんな言葉がある(そりゃあ単語としては知っているけど)というのにカルチャーショックだった。
私は他人への関心が全般的に薄い。
薄情と言ってもいいかもしれない。
「自分と身内」と、「それ以外」で私は構成されている。
これの良し悪しは色々あるのだけど、認知という概念はそこにぶっ刺さる考え方だったので、せっかくなので書いてみようと思う。
そもそもの話、認知とは
にんち【認知】
《名・ス他》・これこれだと認めること。
・法律上の婚姻関係によらず生まれた子を、その父または母が自分の子だと認める行為。
・外界を認識すること。
辞書によるとこう。
一般的には二項目が多いよね。
俳優・アイドル沼では
定義①相手に一個人として認識されて
定義②何かしらの正のアクションを
定義③取られること
の三つを満たすとこまでが認知かなと。
名前と顔は必ずしも一致する必要もない気がする。
あ、あの人だ、と第四の壁の向こうから認めてもらうこと。あわよくばファンサって感じ?
だから、
・「ファン」「客席」という大きな対象に向かって行われているアクション(①の否定)
・「厄介さん」「オキラ」を避ける(②の否定)
・ファンの一個人を認識していてもアクションがない(③の否定)
この辺は認知行為ではない。
されると嬉しいらしいね、認知。
好きな人がたくさんいる中から自分見つけてくれたら、嬉しいのはわかるんだけど。
なんかされたくないんだよなあ認知。
認知されたくない
さて、表題の認知されたくない、というのについて考えてみる。
推しに対して、私の感覚は
・好き
・舞台でのびのびと演じる/歌うのを見たい、やりたいことやっててほしい
・そのために健やかであってほしい
・そのための財布です(限度があるけど)
といった感じかな。
でも認知されたくない。
顔を覚えられたくない。
ステルス機能搭載でいきたい。
認知の上でのファンサ、されたくない。(大衆向けのファンサはやぶさかではないです)
そこで冒頭の私という薄情な人間について少し語った部分が出てくるみたいだなと気づいた。
「自分と身内」と、「それ以外」で私は構成されている。
これが、推しにも適応されてる。
推しのこと好きだけど、内と外で分けるなら、完全に外の人だと思ってる。
観察と称して、いつも一歩引いたところから眺めてるだけ。
もし、こちらに気づいて近寄ってきた場合、確実に逃げる。やましいことなんてしていないけど。
「外」の人に知られるのは怖いから。
私は臆病なので、たとえ好きな相手であっても、私の内側を見せる気はない。
私の心の柔らかい部分をさらけ出すようなものなので。(推しはそれをするので頭おかしい人なのかなと思う瞬間ある)
蚊帳の外から眺めているだけ。
その距離感が私にとって心地よく推せる距離だから。
あとこれは勝手な心境なのだけど、
私のことを覚えるぐらいならその脳みその容量を他のこと、セリフ覚えたりとかに使ってほしい。
あなたの心に私はいる必要がないから。
「認知されたくない」にも色々あるらしい
この記事を書くにあたって、他の方のブログや書き込みをなんとなく流し読みしていたのだけど、
「認知されたくない」にも色々あるらしいと学んだ。
ガチ恋と呼べるほどの情熱を推しに向けていても認知はいらないという方を見たので引用させてもらう。
認知は絶対にされたくない。 もし認知されていたとしたら、もし万が一願いが叶って会えたときに、「ファンとは付き合えないからごめんね」ってフラれるのが理想です。
総括すると「恋人になるにはファンだとそのステージに立てないから」らしい。
もっとも推されている人の性格やポリシーによるんだろうけども。
ただ、
ただ、推しには、「応援しているファン」がいることだけは知っていてほしい。
矛盾なのは理解しているのだけど。
「好き」は、たとえ名も知らぬ誰かによるものでも、何かをする動機になると思っている。
もちろんそれが負の方向に働くこともあるのは知っているけれど(特に最近の推しの言動をもって)。
それでも、舞台に出よう、稽古をしよう、何かしようと思ってくれるのを願って、私は推しを応援するのだ。
好きなところを羅列する楽しい作業(歌編)
ちょっと推しのことを語ろうと思う。
前の記事ではなんだか否定的な文章になってしまったけど、私は彼のことが、というか一番は歌声が、ほんとーーーに好きなのである。とうとい。
ちょっと我ながら偏執的で気持ちの悪い文章を書くと思うがまあ好きなものを語るオタクなどそんなものでしょ?うん。
さあ語るよ好きなとこー!聞いてー!
声が好き
声が好みドンピシャ。
説明のために整数次倍音/非整数次倍音の話の話をしようと思う。タモリさんが話ししてたやつなので知っている人は知っているかも。
簡単に言うと、
耳に入りやすい(キャッチしやすい)が何を言っているか理解しづらいキンキン声(波形が一定)
ボソボソガサガサとしていて聞き取りづらいがなぜか言うことがキツくても許されることが多いハスキーボイス(波形が不定)
と、実は声は二種類に分けられまして、私の推しは、歌声は非整数次倍音、喋り声は整数次倍音なのですよ。
耳触りのよい歌声。聞き取りやすい話し声。ありがとうございます。
歌うときは少し聞き取りづらい分、すごく丁寧に発音しているようで、そこがたまらないんだけどそれは次項で。
発音が好き
押しの発音の、kとtとhが好き。
母音はàが好き。
細かすぎるかもしれないんですけどね、好きなんだなー!
カ行とタ行とハ行。
すごく丁寧に発音してらっしゃる。
それがなんだと思うかも知れないんだけど、
カ行→子音を立て(聞き取りやすいように発生することを立てるといいます)すぎるとgに近い発音になってしまい、汚くなりがち(そのために鼻濁音というのがあるぐらいガ行は汚くなるので忌避されてる)なので綺麗な発音が求められる。そして推しのkは綺麗。
タ行→破裂音。パ行の仲間、口を閉じないとtは発音できないのだけど、強く発音しないと聞き取りづらいけどまあやってみればわかるけど破裂音は強烈なのでやりすぎるとこれまた美しくない。ので一生懸命発音してるなとほっこりする。
ハ行→聞き取りづらい発音で一二を争うハ行。hの発音は吐息なので準備が大変。0.25拍ぐらい前から発音しないと聞こえない気がするんだけど、実際はもっと短くないとダメ。世知辛い。フランス語でhを発音しないのはこれが理由では?勝手に予想しているぐらい私は発音的に嫌い。それが綺麗だししかも吐息だから色っぽい本当にご褒美ありがとう。
とまあ語ろうと思えばかなり語れるぐらいに面倒&難しい&綺麗に発音できるとすごく美しいのですよ。kとtとh。演技の時も気をつけて発音してると思う。
逆に、おしゃべり(非演技)の時にこれらの子音を適当に(というか甘く)発音しているのがたまらない。カァーーーッ好きだーー
発声が好き
私の推しは小さい頃から舞台に立ってる(ほんとなんで2.5Dに出てるのか正直よくわからん)ので発声がホントにしっかりしてる。
正しい力の入れ方と抜き方がわかってる感じ。
若手俳優あるあるだなと思うのは、公演の最後の方で声枯れちゃうやつ。一生懸命なのはわかるけどもったいない、心からもったいない。
その点推しは発声がしっかりしてるので芯のある声になって、ヒャーー好き。ため息が出ちゃう。はァァ。
音程の正確さ
推しは自ら言ってるだけあって耳が良くて、音がすごく正確で(多少のピッチズレやテンポ揺れはあるけど)、聞いてて楽しい。
それが、生歌でもほぼブレない。これたまらんのですよ。
それで食ってるんだから当たり前じゃん、と思われるかもしれないが、結構良くある話なんだよ、ライブで音程狂うの。プロでも人間だから音程は狂うもの。
そこをビシッと決めてくるの最高です好きです。
ミュージカルだと感情の揺れ(と動きで揺れる)のための上下もあるんだけど、まあそれはむしろ美味しいやつ。
私の推しは高音がすごく美しいので、ハモリの上パートたまに歌ってるんですけど、惚れ惚れ。ハーーこれを聞きたかったのよ、と思いながら聞いてる。最&高。
吐息&エッジボイスたまらん
吐息大好物なんですよー。逆に聞きたい、吐息混じりの色っぽい好きな人の声嫌いな奴おんの?なあ!!みんな好きやろ!!私も好き!!上記の堅い話だと非整数次倍音ってやつです。いいんだ、ようはすごく良きですねいう話だから。
あとあまり一般的でない名称ですがエッジボイス。呪怨のア゙ア゙ア゙ア゙です、超簡単にいうと。ミックスボイス(地声と裏声の中間)で少し低い声出すとなりやすい。
歌う時にあれまぜこまれると色っぽすぎて「ん゛ッッッッ」ってなる。
歌い方が好き
なんでもええんちゃうか自分。もしかしたらそうかもしれない。
いやいやいやでもね、歌い方って色々あるじゃないですか。推しの場合、そこまで動かないときは重心の位置がちょうど真ん中で美しいのです。
美しいものは見るだけでも楽しい。そして美しいので聞いて楽しい、で二粒美味しい。ありがとう推し。
あとマイクに噛みつかない。噛みつく歌い方はよう好かん。
あと歌い方、というか抑揚。抑揚とだけいうとただ音量の上下だけを指すことも可能ですけど、 調子の上げ下げがとても良い。
かなりロジカルに物事を考える人のようなので音程→発声・発音→抑揚、と分けて考えて組み立ててから歌うようだなと観察しています。そういうの好き。
…と、まあ、歌う様子(推しはそのほかに顔面もスタイルも動きもかっこいいのに)だけで2000字を軽く超えてしまったので、そのほかの顔面やスタイルや筋肉や動きについては後日。
(好きなものを好きだと言っている時間はやはりすごく楽しい)
憧れと、羨望と、はたまたその反転
推しについて語ろうと思う。
私が彼を推すにあたっての決め手は、その美しい歌声だったのだけど(俳優さんなのでイケメンでもあるし演技もお上手なのだけど)、私は趣味で歌う人でもあるので、純粋に彼に対して羨望と憧れがある。
高らかで伸びやかな歌声。
高音は透き通るように美しく、低音の惚れ惚れとするほど力強い。
エッジボイスや吐息混じりの歌い方はセクシーで、しかし歌い方には情緒を感じさせる。まるで幼子のような心細さを繊細に表現する時もあれば母親のような牧歌的な暖かさを感じる時もある。
一言でいえばとてもお上手だ。なんとまあ、べた褒めである。だからこそ推しているのだけど。
しかし、最近思うことがあって、少し距離が取りたいなと、思ってしまった。
彼の行動とその対処が私の周りで波紋を呼んでいるのもあるけど、少し厄介なファンが付いていて、それと一緒にされるのは面倒だなと思う部分があるので、全てが彼のせいではないのだけど。
誰かに向ける感情は、人を傷つけうるものなのだそうだ。
私が彼に向ける感情も、彼を傷つける。
「好きだ」というのが「好きだった」「好きだったのに」という変化すら、受け手には傷になりうる。むしろ「好きだ」という意思表示すら、喉元に刃物を向けているようなものなのかもしれない。
私は、この、彼の歌声を、ひいては彼を好きだなと思う自分の気持ちを否定したくない。
「好きの反対は無関心」とマザーテレサが言っていたように、「嫌い」という気持ちは、執着しているという点においては、「好き」に近しい気持ちだと思っている。
むしろ、好きだったからこそ嫌いになる、ということもあるのだろう。
つまり「好き」と「嫌い」は表裏一体の、同じもの、なのかもしれない。
それでも、好きでいさせて欲しい。
これは明らかに私のわがままだ。
好きだと思い続けることを、自分自身に否定されるのは少々つらい。
しかしそこに目をつむって、私は彼を、神のように、あるいは自分に近しい何かのように、もしくはおもちゃのように。
人間以外のものとして見たくはないのだ。
誰しも間違うことがあるだろう。
くじけることも、いやな思いをすることもある。
それでも前を向くことを示してくれた彼に対して、 私は報いていたい。
だから、私は、あくまで彼のファンでい続けたいと思う。
間違うことも、くじけることも、いやな思いをすることもあるだろう。
それが一挙一動を多数に見続けられる俳優業ならなおさら。
それでも板の上で生きていこうと思う彼を、私は見守っていきたいと思う。
推しができました。
最近、好きな俳優ができた。
私はもともとオタクで、偶然にも2.5次元の舞台で好きなキャラクターを演じてらっしゃって、彼を知るに至ったのだけど。
好きになったきっかけはきっかけに過ぎなかったのか、不思議なもので、知ったキャラとはすでに別ジャンルの「好き」になりつつある。
(一体それがなんなのかは未だにつかめていないのだけど。おそらく恋愛感情ではないなにか)
あまり三次元の人間を好きになったことがないので、なんだか不思議な感覚で今を過ごしてる。(というか、彼をきっかけに他の人間にも目が向くようになったのかもしれないと今気づいた)
しかも、なんと、イケメン。
私の推し、かっこいいんだよ。若いし。好きなお顔。どうしましょう。いやどうもしないんだけども。
推しを応援したい、と思える気持ちがすごくくすぐったくて、面映ゆくて、代わり映えのしない日常が上向いている気がする。ちょっとだけね。
そんな感じでゆるーく色々考えながら書いていきたいと思う。