憧れと、羨望と、はたまたその反転
推しについて語ろうと思う。
私が彼を推すにあたっての決め手は、その美しい歌声だったのだけど(俳優さんなのでイケメンでもあるし演技もお上手なのだけど)、私は趣味で歌う人でもあるので、純粋に彼に対して羨望と憧れがある。
高らかで伸びやかな歌声。
高音は透き通るように美しく、低音の惚れ惚れとするほど力強い。
エッジボイスや吐息混じりの歌い方はセクシーで、しかし歌い方には情緒を感じさせる。まるで幼子のような心細さを繊細に表現する時もあれば母親のような牧歌的な暖かさを感じる時もある。
一言でいえばとてもお上手だ。なんとまあ、べた褒めである。だからこそ推しているのだけど。
しかし、最近思うことがあって、少し距離が取りたいなと、思ってしまった。
彼の行動とその対処が私の周りで波紋を呼んでいるのもあるけど、少し厄介なファンが付いていて、それと一緒にされるのは面倒だなと思う部分があるので、全てが彼のせいではないのだけど。
誰かに向ける感情は、人を傷つけうるものなのだそうだ。
私が彼に向ける感情も、彼を傷つける。
「好きだ」というのが「好きだった」「好きだったのに」という変化すら、受け手には傷になりうる。むしろ「好きだ」という意思表示すら、喉元に刃物を向けているようなものなのかもしれない。
私は、この、彼の歌声を、ひいては彼を好きだなと思う自分の気持ちを否定したくない。
「好きの反対は無関心」とマザーテレサが言っていたように、「嫌い」という気持ちは、執着しているという点においては、「好き」に近しい気持ちだと思っている。
むしろ、好きだったからこそ嫌いになる、ということもあるのだろう。
つまり「好き」と「嫌い」は表裏一体の、同じもの、なのかもしれない。
それでも、好きでいさせて欲しい。
これは明らかに私のわがままだ。
好きだと思い続けることを、自分自身に否定されるのは少々つらい。
しかしそこに目をつむって、私は彼を、神のように、あるいは自分に近しい何かのように、もしくはおもちゃのように。
人間以外のものとして見たくはないのだ。
誰しも間違うことがあるだろう。
くじけることも、いやな思いをすることもある。
それでも前を向くことを示してくれた彼に対して、 私は報いていたい。
だから、私は、あくまで彼のファンでい続けたいと思う。
間違うことも、くじけることも、いやな思いをすることもあるだろう。
それが一挙一動を多数に見続けられる俳優業ならなおさら。
それでも板の上で生きていこうと思う彼を、私は見守っていきたいと思う。